春の青春18きっぷ 信楽編 窯元 [信楽]
信楽焼きの特徴は「緋色」。
黄色みのある鮮やかな赤色を言い、土中の鉄分が赤く発色します。
何処の窯元に入ろうか…
とか言いながらも、先程から気になるものがある。
坂道を登り、奥まった所にある「谷寛窯」さん。
気になっていたのがこの「レンガ煙突」。
周りには煙突なくて、この「レンガ煙突」が遠くから見えていました。
入り口近くには、狸が並んで迎えてくれます。
奥へ進むと、庭の掃除をしていた奥さんが「どうぞ、どうぞ」と招き入れてくれました。
「では! お邪魔します!!」
後でご主人に聞いた話では、この建物は明治時代の師範学校の講堂を移築したものだそうです。
心遣いが、細かいですね。
学校の講堂だけあって奥行きもあり、とても広そうです。
窯は全ての種類を使ってこられたそうです。
奥にあるのは電気窯かな?
焼き物も、所狭しと並べられています。
奥にギャラリーがあります。
「ギャラリー陶ほうざん」
土の薫りのするものにこだわって展示しているようです。
レンガ造りの部屋のようですが違うのです。
「重油窯」を使ったギャラリーです。
「登り窯」のあと昭和35年頃から、重油を燃料とした「重油窯」に移行しました。
このギャラリーの窯は昭和40年に築炉され、主になまこ釉(うわぐすり)をかけた植木鉢を生産していました。
その後の昭和48年のオイルショックにより、燃料が高騰したことに加え、生産性の高いトンネル窯や、硫黄分による大気汚染の少ないガス窯が開発され、この重油窯は閉鎖となりました。
2階に上がってみましょう。
2階もギャラリーのようです。
これが重油窯の外観です。
ご主人の話では、この「重油窯」を入れるために、師範学校の行動ぐらいの大きさが必要だったそうです。
この「重油窯」は以前、2台あったそうです。
母親と兄弟の「お願いたぬき」。
入り口にもありましたが、最近の流行だそうです。
この窓枠、明治時代の師範学校の講堂の雰囲気があります。
ここ「谷 寛窯」さんへの道は狭いので、当時は重機が入れなかったので移築は大変なものだったようです。
谷井芳山さん。
1983年に、谷寛窯「三代目継承」して芳山と号したそうです。
この器の下の部分、モヤモヤとした柄は、ワラを巻いて燃やせばこんな模様になるそうです。
サントリーの樽材を燃やすと灰が器の表面につき、釉(うわぐすり)を塗ったようになるそうです。
内側の光沢感がそうです。
信楽焼きの起源は「火鉢」です。
昔は全国の80%ぐらいは、生産していたそうです。
最後に聞いたのが、信楽は何故「狸」が有名なのか?
昭和26年に昭和天皇が信楽訪問した時、信楽には沿道を埋めるほどの人がいない。
そこで日の丸の旗を持ったタヌキを沿道に並べて行幸を歓迎したところ、全国にニュースとして流れて信楽の狸が有名になったそうです。
反面、信楽は狸しか焼いていない印象を持った人もいるそうです。
いろいろお話をしていただき、書ききれないことも沢山あります。
谷井芳山さん、ありがとうございました。
「火鉢の山(野積み)」
全国の80%を生産していた信楽では、おき場所にはこのように山のように野積みしていたそうです。
大きな登り窯を見つけました。
時代を終えて使われることがなくなり長い間放置されていた登り窯を、地域の文化遺産として後世に伝えるべく窯と周辺の小屋の改修をして「Ogama」として再生したそうです。
ギャラリーとカフェを営業しているそうですが、時間がないので「登り窯」のみを拝見させていただきました。
「谷寛窯」谷井芳山さんの作品が、「信楽伝統産業館」で開催されている「信楽の伝統技法と名工の作品展」に出品しているそうなので寄ってみます。
もう少し信楽の町を散策してみます。
黄色みのある鮮やかな赤色を言い、土中の鉄分が赤く発色します。
何処の窯元に入ろうか…
とか言いながらも、先程から気になるものがある。
坂道を登り、奥まった所にある「谷寛窯」さん。
気になっていたのがこの「レンガ煙突」。
周りには煙突なくて、この「レンガ煙突」が遠くから見えていました。
入り口近くには、狸が並んで迎えてくれます。
奥へ進むと、庭の掃除をしていた奥さんが「どうぞ、どうぞ」と招き入れてくれました。
「では! お邪魔します!!」
後でご主人に聞いた話では、この建物は明治時代の師範学校の講堂を移築したものだそうです。
心遣いが、細かいですね。
学校の講堂だけあって奥行きもあり、とても広そうです。
窯は全ての種類を使ってこられたそうです。
奥にあるのは電気窯かな?
焼き物も、所狭しと並べられています。
奥にギャラリーがあります。
「ギャラリー陶ほうざん」
土の薫りのするものにこだわって展示しているようです。
レンガ造りの部屋のようですが違うのです。
「重油窯」を使ったギャラリーです。
「登り窯」のあと昭和35年頃から、重油を燃料とした「重油窯」に移行しました。
このギャラリーの窯は昭和40年に築炉され、主になまこ釉(うわぐすり)をかけた植木鉢を生産していました。
その後の昭和48年のオイルショックにより、燃料が高騰したことに加え、生産性の高いトンネル窯や、硫黄分による大気汚染の少ないガス窯が開発され、この重油窯は閉鎖となりました。
2階に上がってみましょう。
2階もギャラリーのようです。
これが重油窯の外観です。
ご主人の話では、この「重油窯」を入れるために、師範学校の行動ぐらいの大きさが必要だったそうです。
この「重油窯」は以前、2台あったそうです。
母親と兄弟の「お願いたぬき」。
入り口にもありましたが、最近の流行だそうです。
この窓枠、明治時代の師範学校の講堂の雰囲気があります。
ここ「谷 寛窯」さんへの道は狭いので、当時は重機が入れなかったので移築は大変なものだったようです。
谷井芳山さん。
1983年に、谷寛窯「三代目継承」して芳山と号したそうです。
この器の下の部分、モヤモヤとした柄は、ワラを巻いて燃やせばこんな模様になるそうです。
サントリーの樽材を燃やすと灰が器の表面につき、釉(うわぐすり)を塗ったようになるそうです。
内側の光沢感がそうです。
信楽焼きの起源は「火鉢」です。
昔は全国の80%ぐらいは、生産していたそうです。
最後に聞いたのが、信楽は何故「狸」が有名なのか?
昭和26年に昭和天皇が信楽訪問した時、信楽には沿道を埋めるほどの人がいない。
そこで日の丸の旗を持ったタヌキを沿道に並べて行幸を歓迎したところ、全国にニュースとして流れて信楽の狸が有名になったそうです。
反面、信楽は狸しか焼いていない印象を持った人もいるそうです。
いろいろお話をしていただき、書ききれないことも沢山あります。
谷井芳山さん、ありがとうございました。
「火鉢の山(野積み)」
全国の80%を生産していた信楽では、おき場所にはこのように山のように野積みしていたそうです。
大きな登り窯を見つけました。
時代を終えて使われることがなくなり長い間放置されていた登り窯を、地域の文化遺産として後世に伝えるべく窯と周辺の小屋の改修をして「Ogama」として再生したそうです。
ギャラリーとカフェを営業しているそうですが、時間がないので「登り窯」のみを拝見させていただきました。
「谷寛窯」谷井芳山さんの作品が、「信楽伝統産業館」で開催されている「信楽の伝統技法と名工の作品展」に出品しているそうなので寄ってみます。
もう少し信楽の町を散策してみます。
ステキな窯元さんの所に入ったね!
見てると・・・・また行きたくなりました!(笑)
狸の謎も解けたね〜^^
by hatumi30331 (2013-03-07 07:50)
伝統を守りつつ新しいモノを取り込んでいく、日本の産業も全てこうであって欲しいですね。
by koni (2013-03-07 11:11)
なるほどー、狸にはそういうわけがあったのですね。それにしてもつい最近ことなんですね。
窯の歴史も面白い。そういう風に移り変わっていくものとは知りませんでしたね。
by moumou (2013-03-08 07:46)
素敵な窯元ですね~(*^^*)狸さんが可愛いです♪
by kummy (2013-03-08 15:41)
この様に素晴らしい窯元は見応えがあるでしょうね。
by 旅爺さん (2013-03-09 18:13)
おねがいたぬき、かわいい!
by こーじ (2013-03-14 20:33)